加古川市内の戦争史跡
市内の戦争史跡についてご紹介します。
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もとは、1959(昭和34)年、特攻隊員の魂を鎮めるため、軍の指定旅館であった中村屋旅館(加古川町寺家町)に建てられました。
近くの尾上飛行場は、戦争末期には、関東及び中部方面から志願してきた特攻隊員が知覧(鹿児島県)の特攻隊の基地に行く中継地でした。
ここで燃料や機体の整備を行うため、何日か旅館に宿泊し、家族が面会に来ていました。しかし、自分が特攻隊として行くことは極秘事項であり、家族にさえ話すことはできませんでした。そんな彼らは死地への出撃前夜、旅館に遺書を託していきました。
戦後、旅館の主が大空に散った若者たちをしのんで建てましたが、2001(平成13)年、旅館の廃業に伴い鶴林寺境内に移されました。また、同寺には、特攻隊員が指を切って血で書いた「断」という文字が残っています。
特攻隊の碑(左写真)
当時の陸軍大臣の「関西の最重要地区に防空の飛行隊を設置する」との命により、加古川の地が選ばれ、戦前の1937(昭和12)年12月に加古川河口近くの旧尾上村に開設されました。面積約150ヘクタール、全長500~1,500メートルの滑走路5本が三角に交わり、「三角飛行場」と呼ばれました。また、常時30機ほどの戦闘機を配備させるなど、関西地方防空の要として機能し、飛行機の整備や少年飛行兵の教育などの役割も担っていました。
戦争末期の1945年頃になると、関東・中部地方から知覧基地(鹿児島県)に向かう特別攻撃隊の中継・出撃基地にも使われました。
尾上公民館前に設置された飛行場跡碑(右写真)
尾翼に「カコ川」と書かれた戦闘機
加古川飛行場を記録する会 上谷昭夫氏 提供
当時の飛行場正門(現在は残っていません)
加古川飛行場を記録する会 上谷昭夫氏 提供
説明碑(手前)と基礎石(写真奥)
1944(昭和19)年、現在の浜の宮公園に旧陸軍航空通信学校尾上教育隊が置かれ、全国から集まった約1,500人の少年通信兵が教育を受けていました。少年通信兵が寝泊まりする木造2階建ての兵舎が整然と並び、信号や暗号を練習する電鍵講堂、将校集会所や日用品を販売する店(酒保)もあったそうです。
戦後の1947年秋、浜の宮中学校の教室に使われましたが、1950年代後半に取り壊され、現在跡地は、浜の宮公園、浜の宮中学校、社宅などになっています。
1996(平成8)年には、加古川市が一部の兵舎基礎の整備・保存を行いました。
そこにある碑文には、「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました。」とあります。
神野弾薬庫(上写真)と裏門跡(右写真)
日中戦争が始まった1937(昭和12)年頃に建設され、爆弾や砲弾に火薬を詰めたり、信管を取り付けたりして完成品にしたあと、弾薬庫で保管していました。敷地内に加古川駅と結ぶ鉄道の引き込み線があり、弾薬が中国などの戦地へ送られていました。
この建物は2007(平成19)年に取り壊されましたが、裏門の跡は今も残っています。
れんたい橋(上写真)と兵士の墓(右上写真)
ハリマ化成株式会社加古川製造所の北西100メートルぐらいのところにあります。
新井用水をまたぐ県道148号線に架かっており、欄干の親柱に掘られた文字から、1938(昭和13)年6月に竣工されたものとわかります。橋の名は付近の旧陸軍高射砲連隊に由来すると伝えられています。
近くには弾薬庫があり、爆弾を荷造りする箱をこの地域で作っていましたが、橋の辺りは急な坂道になっていたため、材料を馬車で運ぶこともありました。
ハリマ化成株式会社加古川製造所の南西すぐの所には「くんれん橋」が残っています。
高射砲連隊の訓練場に通う兵士たちがこの橋を往復したことから名付けられたといわれています。
神姫バス「卸団地」停留所南
くんれん橋(左写真)
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更新日:2021年02月17日