七騎塚の碑/市登録文化財

更新日:2026年04月20日

七騎塚の碑

名称

七騎塚の碑(しちきつかのひ)

数量

1基

種類

歴史資料

材質及び技法

石造、碑石及び上台は和泉砂岩製、中台及び下台は竜山石(流紋岩質溶結凝灰岩)製

寸法

寸法/総高(碑石頂-下台下)182.7cm
(碑石 高さ105.0cm 幅42.5cm 奥行30.3cm、上台 高さ18.7cm 幅58.0cm 奥行43.5cm中台 高さ30.2cm 幅80.0cm 奥行69.5cm、下台 高さ28.8cm 幅104.7cm 奥行97.0cm)

時代

江戸時代 文化10(1813)年4月

文・書

表文は古賀精里、碑陰文と書は頼春水

登録年月日

令和8(2026)年3月10日

所有者及び所在地

所有者 船頭町内会

所在地 米田町船頭306番地の2

解説

 この石碑は、南北朝時代はじめに、主君である出雲国守護塩冶高貞を追手から逃がすために、加古川のほとりで討ち死にした7騎の武者を顕彰するものです。
 表文は幕府の儒学者である肥前の古賀精里、碑陰文と書は儒学者、詩人で頼山陽の父でもある安芸の頼春水によるもので、石碑は、文化10(1813)年、加古川驛本陣分家中谷三介、瓦屋佐右衛門らによって、加古川西堤の西国街道(江戸時代の山陽道)の南側に建てられました。その後、河川改修工事に伴い元の位置から北東方向に約130mの現在の大師堂境内に移動しています。
 この碑に表された七騎塚については、次のとおりです。
 南北朝時代のはじめ暦応4(1341)年、塩冶高貞が、足利尊氏の執事高師直の讒言により謀反の疑いをかけられ、京都を出奔し出雲に向かう途中、追手の山名師義に、加古川驛の西で追いつかれそうになった時、弟の塩冶重貞、騎従の木村玄信、木村源五、淵名七郎、眞島兵衛、山中四郎、平田十郎左衛門の7騎が、主を討たせまいと、この場所に踏み止まり敵の軍勢と激しく戦い、遂に全員が討死してしまいました。この土地の人は、7騎の忠死を憐れんで、それぞれの亡骸の近くに塚を築いて厚く葬りました。後世にこれを七騎塚と呼ぶようになりました。
 その後、寛延2(1749)年の大洪水で一つの塚が流失したのをはじめ、洪水や近代の河川改修工事による取り壊しなどによって全ての塚が無くなっています。
 また、宝暦12(1762)年頃の『播磨鑑』や文化元(1804)年の『播磨名所巡覧図会』など、江戸時代の地誌や名所案内には「七騎塚」は名所として詳しく記されています。
 その他、七騎塚に関係するものとして、加古川町本町の称名寺に頼春水の子である頼山陽による表文を記した「七騎供養塔」があります。
 この石碑は、江戸時代の西国街道の名所として知られるようになっていた加古川を舞台にした物語を、優れた文章と書で表したものであり、文化史的意義を有するものです。

この記事に関するお問い合わせ先

担当課:文化財調査研究センター
郵便番号:675-0101
住所:加古川市平岡町新在家1224-7(中央図書館2階)
電話番号:079-423-4088
ファックス番号:079-423-8975
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