教信寺境内/市指定文化財

更新日:2020年04月16日

教信寺境内

名称

教信寺境内(きょうしんじけいだい)

数量

1か所

種類

史跡

時代

平安時代(9世紀)から現代まで

所有者及び所在地

教信寺(野口町野口384番地、465番地)

指定年月日

平成10年1月8日市指定

解説

 教信寺は、平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられた寺院です。
 教信上人は、天応元(781)年に奈良に生まれ、興福寺で学んだ後、16歳の時に同寺を出て諸国を行脚し、40年余りの後、賀古の駅(うまや)にたどり着き庵を結んだと伝えられています。加古川での教信の活動は、ひたすらに念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをするというもので、東は明石から西は阿弥陀宿(現高砂市阿弥陀町)まで荷物を運んだそうです。また、教信寺の南に広がる駅ヶ池(うまやがいけ)も教信が地元の人々と掘ったものだとも言われています。
 貞観8(866)年、自らの死期を悟った教信は、妻と子に遺骸は庵の側に捨てて鳥獣に施してほしいと言い残して亡くなりました。同じ時、摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市)の僧勝如の夢に教信が現れ、自らの死を告げました。教信寺に伝わる教信頭部像は、その時の教信の姿を表したものとのと伝えられています。
 その後、清和天皇(850~880)が教信の徳を偲んで、この地に伽藍を建てて観念寺とし、さらに崇徳天皇が大治元(1126)年に念仏山教信寺と改めたとされています。天正6(1578)年の羽柴秀吉の三木城攻めで、野口城が攻略され、教信寺もすべて焼かれてしまいました。一部の仏像や仏画は、僧らの手によって焼失を免れ、元和年間(1615~1623)に堂宇が再興されました。
 教信は、一遍や親鸞にも先達として仰がれ、とくに一遍は、諸国を巡るたびの途中、教信寺に立ち寄っており『一遍聖絵』には、その時の教信寺のようすが描かれています。
 一遍が教信寺に宿泊した時に念仏踊りを興行し、これが現在の播州音頭の起源であると伝えられています。

地図情報

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