新井用水
本校の校区を流れる新井(しんゆ)用水を紹介します。
江戸時代のはじめは、加古川下流の平野部でしか農を営むことができませんでした。少し高くなった所でさえ、水を引くことは容易ではありません。ため池やわき水に頼るしかありません。誰もが途方にくれるしかなかった用水事情を打開しようと試みた人物がいます。新井用水の生みの親、今里伝兵衛(いまざとでんべい)です。干ばつで見るも無残なありさまだったのに対し五ケ井用水から取水していた平野部では、たわわに稲が実っていました。
工事に携わった人夫は延べ16万4千人。約14キロメートルの水路によって約480ヘクタールの農地に加古川の水が配られるようになりました。
台地への引水は、綿密な調査と正確な測量技術を要しました。どの位置に堰を築けば、台地に水を引き入れることができるのか。今里は台地と加古川の間を何度も歩いて調べました。そして、まとめた計画を近くに住んでいた庄屋達に報告します。熱意は庄屋達に伝わり、いよいよ藩へ請願します。姫路藩主、榊原忠次は綿密に立てられたこの計画を「一群永久の計」と誉め、すぐに工事の開始を言い渡します。等高線にそって、正確に水路が引かれていきます。また、ほとんどこう配の無いなかで、水位が下がらぬように、水路の幅を徐々に狭くして、水位を保つ工夫なども取り入れられました。そして1656年、1年3ケ月という短い期間で新井用水が完成しました。



レンガとかやぶき屋根が特徴の建物です。むかしは、樽を作っていた樽屋さんだったそうです。

アーチから材木を取り入れて、樽を作っていたそうです。西条会館の所に酒蔵があり、そこに樽を供給していたと地元の方に聞きました。

逆サイフォン入口


逆サイフォン出口

ここ曇川は、最初の工事で川の上を横断する木製の筧樋(かけひ)という方法でした。しかし後に喜瀬川と同じ埋樋(うずみび)により、川の下を横断する方法に変更されたそうです。


水面の高低差を利用して水を移動させる原理を「逆サイフォンの原理」といいます。これによって川の下を通すことができます。
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更新日:2022年11月28日