加古川市歴史文化基本構想概要版
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3■市内には、西条古墳群、日岡山公園や平荘湖周辺の古墳群などの多くの重要な遺跡が残り、古代の『播磨国風土記』のイナビノオオイラツメへの求婚説話をはじめとする多くの伝説があり、日岡山や八十橋などの遺称地があります。また、地域の歴史を物語る、古くからの地名も多く伝わっています。国宝の本堂と太子堂がある鶴林寺の聖徳太子、志方地域の法道仙人、野口の教信上人、大野常楽寺の文観上人など、社寺には、有形の文化財だけでなく地域の歴史文化を語り継ぐ伝承も多く伝わっています。路傍の石造品は身近にあり、その中には古墳時代の石棺や鎌倉・南北朝時代の石塔や石仏も多くあります。現在の加古川町本町周辺は、鎌倉時代をとおして播磨国の守護所が置かれ、戦国時代には賤ヶ岳の七本槍の一人である糟谷武則の加古川城がありました。中道子山城をはじめとする室町・戦国時代の城跡も各地域に点在しています。戦国時代の戦の伝説も多く、織田信長軍の播磨攻めにおける、野口城、神吉城、志方城などの合戦については様々な逸話が語り継がれています。都市化のため景観は急速に変化していますが、江戸時代に賑わった西国街道の宿場町や加古川舟運の名残りを示す景観も残っています。古くから稲作が盛んで、市内の三角州と台地に網の目のように張り巡らされた五ケ井用水、新井用水、上部井用水、淡河疎水などの農業用水路と、各地に点在する寺田池などのため池は古代・中世に始まったものもあり、その多くは江戸時代の新田開発など農業生産向上のためのものです。その中には農業土木技術の水準の高さを示すものが数多くあります。ため池や用水路については、全国的に見ても最も発展した地域のひとつといえます。江戸時代の中ごろになると、綿作などの商品作物の栽培による農業の振興が図られ、播州木綿の生産が行われました。その中で、村々では今に伝わる祭礼や年中行事も盛んに行われてきました。泊神社、平之荘神社、上之庄神社、志方八幡神社にはこの頃からの舞台が現存しています。また、多くの文人が加古川宿を訪れ俳諧などの文芸や学問も盛んに行われていました。街道では、西国街道(山陽道)や有馬街道のほか松林が続く浜街道があり「播州松めぐり」や「尾上の鐘」は播州の名所として広く知られていました。近代には、鉄道が開通し、化学肥料工場の創業、煉瓦建物が印象的な大規模毛織物工場の進出、一部では農業から織物産業への転換などもありました。水利施設も近代化し、建造物の増加や新たな生活様式が見られます。また、旧陸軍尾上飛行場をはじめ、日中戦争から太平洋戦争の時期にはいくつ近代の発展を物語る多木浜洋館尾上神社の銅鐘平之荘神社の能舞台加古川城跡(称名寺)石棺に彫られた石仏(長楽寺六尊石仏)

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